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2011年3月17日 (木)

被災生活7日目

11日の未曾有の震災より1週間がたちました。
皆さんからTwiterを通じて、あるいはメールで励ましのメールをいただきました。
どんなに励まされ、勇気をいただいたことでしょう!!
ほんとうにほんとうにありがとうございました。
あらためてお礼を申し上げます。

すでにテレビやインターネットを通じて被害の全容が明らかになりつつありますが、
被災地から少しでも状況をお伝えできればと思います。

まず、地震の当日、早朝に白鳥が飛び立って行ったことをTwitterにつぶやきましたが、もしかすると何かの前触れだったのでしょうか?


3月11日〈当日〉

いつものように定期的な外来受診。
数値も良く今の治療を継続することで了解し、薬を1ヶ月分もらって、「どらやき」予約を受け取り、帰路についた。
昼食後、ちょっと昼寝でも・・と横になっていたら、遠く南の方からご〜〜〜〜っつ地鳴りがしてきて、ぐらぐらっと揺れ始めました。家全体がギシギシと南北方向に揺れ続け、いったん中休みがちょっとあり、それからはベッドの上で丁度ロデオの馬に乗っているかのように揺られ続けた。

揺れ始めた直後、私の頭上にパニックになった猫がすっ飛んで来たので、足をひっつかみ、抱きかかえて布団をかぶったまま、ただひたすら揺れが治まるまで震えていた。
私の懐で小さな心臓がドクドク音をたて、私も動機が激しくて声を出していないとパニックになりそうで、「大丈夫、大丈夫、絶対に守ってあげるからね」と繰り返し言っていた。

もう、ダメだ、2階は落下するかもしれないし、家の倒壊で下敷きになって終わりだろうなどと覚悟していた。悪夢のような長い時間、「それでも実際はたった6分だっと」地震がようやくいったんは治まったようだ。

階下から娘の声がして、夫も家族全員がまったく怪我も無く無事で本当に安堵し溜め息をつきました。
すぐにラジオをつけると震度7との放送。
落下物が散乱し、ガラスや茶碗が割れているのですぐに靴に履き替えた。
断水に備えてすぐにあらゆるものに水を汲み、浴槽に水を張った。
そうこうしているうちにも大きな余震が続くので、そのたびに玄関ドアを開け、外に出たり入ったりを繰り返し、みんなで動揺していた。隣近所の人達も外に出て屋根瓦の破損を確かめた。

同じ並びの家では、一軒だけが瓦が落ちたくらいでした。
夫が町内会の班長で、隣家が役員さんなので二人で近所を巡回し、一人暮らしの高齢の方の家など安否確認をし、皆が無事だとわかりほっとしたところ、大粒の牡丹雪が振り出してきて急速に気温が低下。

暖をとるにはどうしたら良いか、とりあえずは余震が怖いので薪ストーブは控えた方が良いし・・・
こうなると、旧式の暖房機が無いとどうすることもできません。

我が家では、灯油でボイラーを焚いてオイルを暖めて電力で循環させている方式なので、電気が復旧するまでは全く使えない状態。さて、寒さをどうしたらいいか・・

カセットコンロ、ろうそく、マッチ、乾電池、食料品をチェック。
乾パン、避難用の水、最低限のものは確保。しかし肝心のカセットコンロの予備が無い!!
煮炊きができないとなるとどうしたものか・・・・・

浴槽には赤黒い水が溜まっていた。なにやらヘドロっぽい臭いも・・しかし当面、トイレに流す分だから仕方がない。当日は停電、断水、ガスとすべてのライフラインが途絶えてしまった。
それに加え、夫も、私も携帯の充電が切れてしまって音信不通になってしまった。

そんな中で、唯一の情報源はラジオと娘のiPhone。
Twitterで早速つぶやき開始。

前の家の猫ちゃんがいなくなってしまった。探し歩く娘さんとお母さん。猫はこんな時にどこに避難するのだろうか・・・寒くなってきたのに心配だ。

娘が明るいうちに近くのスーパーに買い出しに行き、数時間並んで後両手いっぱいにカップラーメンやみかん、水などを買ってきた。少しほっとする。

我が家の猫は緊急避難に備えてキャリーに入れ、毛布でくるんで自分たちの足下に置いた。
ただ事でないと分かっているのかみじろぎもせず、声も出さないでいる。

刻々と伝えられる情報によれば、震度は何度も訂正され、最終的にマグニチュード9.0になった。
それを聞いてあらためてたまげてしまった。これがずっと警告されていた宮城県沖地震なのだろうか、

夕方、うちの所員が仕事先からこちらへ避難してきた。家は公団住宅の5階だし、家族は実家に帰省中だという。こういう時に若い男性が一人でもいてくれると心強い。
夕食はカセットコンロでお湯を沸かし、みんなでカップラーメンをすする。

だんだんと日が暮れて行き、強い余震が繰り返しやってくる中、心細い夜を過ごす。夫、所員、娘、猫は1階の打ち合わせ室でテーブルを囲んで椅子で仮眠。災害用のアルミの断熱用フィルムをひとり1枚ずつ配る。火も水も出来る限り節約。
猫はキャリーごと風呂場に連れて行き、ごはん、水など済ませ、猫用トイレで用を足すまで娘が見守った。再びキャリーに入れて戻る。

私は2階の自分のベッドで布団にくるまって寝ることにした。着の身着のままで横になる。疲れがどっと出るが、余震が続くので恐ろしくて眠れない。

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3月12日〈2日目〉
朝になって目が覚めたらすべてが夢だった・・なんて儚い期待を抱きつつおそるおそる目を開けたが以前として厳しい現実が続く。辺り一帯を低空飛行している何機ものヘリの音が、それをいっそう実感させる。

ラジオでは、一夜明けて被害の状況が甚大なこと、地震よりも遥かに甚大な大津波の被害の惨状を伝えていた。耳からの情報だけなのでどれくらいの広がりなのかがわからない。
情報が錯綜する中で、あろうことか福島第一原発の事故の報道も同時に耳に入ってきた。
この上、放射能漏れの危険があるのだろうか・・なんということだろう

朝食にもカップラーメンをすすり、所員は自宅の片付けに帰って行った。
台所の散乱したガラス類を片付けてから、夫は薪割りをし、私と娘はそれぞれに買い出しに出かけた。
車で走ると片側1車線が車の列で動かない状態。みんなどこに何しに行くのだろう。
DIYの店では早朝7時から営業していたとのことで、私が着いた10時ころにはすでに長蛇の列だった。店の人がマイクで放送し始めた。非常用の物は売り切れてしまったそうだ。乾電池、カセットコンロの予備、灯油缶、水など。


とりあえず今あるもので何日しのげるか、もう一度非常用の物をチェック。なんと、ビスケットが25センチ四方の缶に一杯入っていた。最悪でもこれでしのげる。

夕方になり、元スタッフのTさんから嬉しいメール。北側ブロックでは電気が復旧したとのこと。暖かいご飯とみりん干しで夕食をどうぞとのこと。はあ〜、ただただ嬉しくて涙が出る。
こたつに入り、石油ストーブにあたりながら皆で食卓を囲む。なんて幸せな光景だろう。この日、初めてテレビを見た。大画面のせいもあって、あまりの惨状に言葉を失う。沿岸一帯が壊滅状態。
「壊滅」という言葉の重み、実体を、テレビの画面で目にした衝撃。信じられない。まるで「デイアフタートゥモロー」かなにか、映画を見ているかのようだ。

気仙沼から、陸前高田、女川、入り組んだリアス式海岸に添うようにあった海辺の街が跡形もなく消失したところが繰り返し映し出されている。
仙台市の南方では死者が200〜300人という情報あり、何が起きたのか把握できない。


お腹が満たされて少し気持ちが上向きになった。暗くなってきたら、ただ寝るのみ。
猫は常に人のそばにいるようにしておく。


3月13日〈3日目〉
まだ夜中に余震がつづき、なかなか熟睡できず朝を迎えた。
相変わらずカップラーメン、パン、などを食べてしのぐ。
夫が小学校の炊き出しでわかめご飯をもらってきた。給水もできるとのこと。
食後、またまた階下の片付け、とりあえず余震が来ても今以上に散乱しない程度の片付け。
2階の居間は本棚が傾いて本が散乱したので片付けてみるが、元通りには戻せない。

小学校が避難場所として指定されているので、娘と二人で一応様子を見に行ってみた。
のどかな昼下がり。私たちの住んでいる地区では、どこにも地震の被害を思わせるようなものは何も見当たらない。ただ、地面の隆起があったり、小さな亀裂があったりが数カ所みられた。

体育館には、数カ国後で張り紙がしてあり、防寒用の毛布や食料などは持参してくださいとのこと。
避難所なのに???(この辺りは被害が無いから良いものの)

寒そうな室内は土足で出入りすることになっており、お年寄りが数人避難していた。世話役の人らしき人も数人いるのみで閑散としている。炊き出しもその日は予定が無いとのことだった。被害が少ないのだし、家にいる方が大多数の人にとっても安心だろう。

この日も早めに就寝。とにかく寒いので煮炊きのためだけに火を使うだけで精一杯。
久々に肉じゃがを懐中電灯の灯りの中で娘が作ってくれ、暖かい食事ができた。小さな幸せ。


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長文になったので続きはまた明日・・・

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